ここから本文です

スタッフブログ

ナノテクノロジー, あるいは, アリストテレスと商品開発

増田宗昭『知的資本論』は、デザインを核にしてビジネススタイルを大局的にとらえた示唆深い本で、とても勉強になった。増田さんは蔦屋書店創業者、日本屈指の起業家だ。

モノ不足を量産で乗り越えてきた第一ステージ、モノ余りをプラットフォーム戦略で解決した第二ステージ(ツタヤのビジネスモデルはここで躍動)、さらに、これからの第三ステージは「選んで提案する力(デザイン)」がコアになると主張している。インフラ整備が財務資本なら、提案力(デザイン)は知的資本だ、という文脈でタイトルが決まっている。

200頁強のこの本を40頁ほど読み進むと、次のような一節に出会う。

「モノとは二つの要素からできている。一つは機能、そしてもう一つはデザインだ・・・例えばグラス。液体を入れておくのが<機能>で、持ち手のないガラス製の容器というのが<デザイン>だ・・・アリストテレスは、あるモノに性質を与えるのが<形相>。そのモノの素材が<質料>であって、この両者は分かつことができないと説いた。実際、現代の商品においても、その商品の性質を決定する<機能(形相)>と、その外観を構築する素材(質料)の<デザイン>は不可分であって、そのどちらが欠けていても、それは商品として存在できない」

だからこそ(機能とデザインは不可分であるからこそ)、「形相(機能)が商品の本質」「デザイン(素材構成/質料)は付加価値」と嘯く連中は、モノの成り立ちに真剣に思いを巡らすこと知らないのだと言い切る。

なるほど、そうか、サイエンスの分野でも形相因主導説への反旗が上がりつつあることに相応する議論だなと思い到る。ここで、「内部観測」「プロトバイオロジー」等の新概念提案の旗手で物理学者の松野孝一郎の説を聞いてみよう。

「物理学では、形相因に運動法則を当てはめ、作用因(動因)に初期条件などを全部押し込んでいる」。これはニュートン力学のなりわい(プリンキピアの書き振り)を見れば当を得た解釈であろう。松野は続けて、「さすらう不都合(進行形)」には配慮せず「整合のとれた記録(完了形)」でことを収めようとする今の物理学は過激に過ぎるとして、「質料因と称しているもの自体に、動因(と波乱原因)が潜んでいるのではないか」と述べている。この論点を皮相的に見れば、形相因と質料因の勢力争いと見ることもできなくはないと私自身は捉える。質料因に関して言えば、そのど真ん中に挑む「素粒子物理学」や、材料レベルから新機能を次々に生み出す「ナノテクノロジー」の発展を見れば分かる。

そうした形相と質料のせめぎ合いの勘所は、哲学者の山田義久が鮮やかに整理している。曰く「質料には<形相の担い手としての基体の側面>と、モノを構成してそのモノの成り立ちを説明する側面>が共存しており、後者は、<質料とされるモノ自体を形相として捉えることを可能にする>側面である・・かくして、形相と質料の区別は形相の<重層構造>として理解できる」。最後の部分は、松野の考察と照らすと、むしろ「質料の重層構造」と言い換えた方がしっくりするのではないか。ことほどさように、形相因と質料因は不可分なのだ。

先の松野の言説「質料因と称しているもの自体に動因(と波乱原因)が潜んでいるのではないか」には、例えば原初の「バクテリアの行動が<やり過ぎ>と<やりなさ過ぎ>をしどろもどろに継ぎ接ぎしながら生き抜いている」ように、例えば経済活動が「現金と当座預金の額が場面ごとに変動することに見られるごとく経営者の<やり過ぎ(可塑性)>と<やりなさ過ぎ(信頼性)>の繰り返しで辻褄をあわせていく」ように、例えば宇宙創成時の「生まれたてのクォークが自分だけではまともな状態を保ち切れなくなって仲間を集めて陽子や中性子になった」のも、「陽子や中性子が原子を構成」し、さらにはそれらが「タンパク質を/DNAを構成していった」のも、実は「質料因自体に動因(と波乱原因)が潜んでいて」、その営みの結果として形相が現れてくる・・・

だすると、極言すれば、(本質同士が創発しあう以前に)「創発が本質を生む」ということかもしれない。これは言い過ぎかなあ、しかし、ナノテク商品などは、このくらいの概念を標榜して研究を進めてみても良いのではないかと思う。