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スタッフブログ

Proactive! Abduction! ~ 未来の情報を使う心の仕組み

しばらく前のこと。日経のオンラインに「日産セレナに道路事情を知り尽くしたプロパイロット制御」という記事があり、さっと見てみた。

http://techon.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/359040/091300040/

ドライバーは常にステアリングに手を添えて自らが操舵を行うことを前提に設計されているものの、一旦プロパイロット制御を効かせて試乗を続けると、自動操舵や先行車追従や高速走行中の割り込み対応など実にスムーズで安定感があって驚かされた、と。さらに読み進んでいくと、「・・・(プロパイロット制御された)クルマ任せにしていれば滑らかに走るが、そこにドライバー自身の感覚を重ねようと意識すると違和感が出る・・・・制御と、その人の感覚の相性が、合う場合と合いにくい場合とが出るのだろう・・・」とのコメントが出てくる。

プロパイロット(propilot)の「プロ(pro-)」とは、プロアクティブ(proactive/予測して対応する)と同じ意味合いの接頭語でせう。Proactive Control(先行制御)という概念を知ったのは、7年前、仙台で開催されたFIT2009なる情報処理系の学会に参加した際、当時すでに東北工業大学学長だった沢田康次先生の「ヒト視覚運動系におけるフィードバック(FB)機構とフィードフォワード(FF)機構 ~ 混在と分離」というレクチャーを聴いた時だ。とても感銘深かった。そうそう、そうだったと思い出し、当時職場で報告した文書をサーバから引っ張り出して眺めながら・・・

沢田先生が構成した「視覚-運動系」のFFとFBを今回の日産セレナに置き換えて推測してみると、プロパイロット制御は機械システムながら“FF的に能動機能”しているのに対して、運転をプロパイロットに任せている状態のドライバーの方は、むしろ助手席の乗客のような立場で運転状況を眺めている“FB的な受け身感覚”に置かれているように思える。記者の違和感は、沢田理論におけるFF機構とFB機構の差異(先行制御しているか否か)に相当すると読み直してみることもできるだろう。本来「能動的であるはずの人間」でさえ、いったん受け身心理に甘んずれば「後追い的FB姿勢」に陥ってしまうということもあるのだろう。

ここからアナロジーしてみれば、人々が今の時点から「シンギュラリティに職を奪われる」と受け身のメンタリティのままなら、事態はまさにその通りに進んでしまってもおかしくない気までする。・・・しゃんとしようぞ、われらサピエンスは。能動こそ、proactiveこそ、サピエンス本来の力であろうから。

7年前、この分野(情報処理や制御工学)のドシロウト(今もそうだが)だった自分は、質疑時間や講演後、沢田学長に幾つか質問をしてみた。学長、応えて曰く:
「人間の脳は、環境変化に対して主体的(彼は之を「先行制御的」という)に応じる。そのとき、《人の脳時間》は外界の時間に対して早く進む。人の予測機能には《時間を作る》機能があるはずだ。つまり、未来の情報をつかって現在を認識し状況に対応している」
→「人は先行制御することによってのみ自由意思を持つ」(これには参った!そうか、そんな話をしてよいのかと思い切った自分が、「人が音楽を作ることができるということも先行制御の賜物ではないか」と問えば:)
→「まさにその通り。リズムが未来を引き寄せている」(完全にやられてしまった ^_^)

それにしても、いつも驚かされるのは、学長・総長クラスで学問的な意欲を決して失わない人たちの頭の中で行われる真理の掴み具合の鮮やかさ、個々の事象を統合的に再解釈して従来の地平では見えなかった突破口を「ほら見てご覧」と示してみせる涼やかな指南ぶりである。先の沢田学長や、かつて東大総長だった吉川弘之先生(「サービス工学」や「人工物工学」等を唱えられた)などが好例だろう。ところが、個々の専門分野(学問領域)で最先端を走る現場の研究者は、そういう視点では当該専門分野を引っ張る論文を書けないだろうことを察知してか、視野の拡さそのままで思想を発展的に引き継ぐような流れ(先哲として奉りはするが)は、あまり見られない。それは少し残念な気がする。とはいえ、吉川先生の『人工物工学の提唱』(1992)に関しては、後日、人工物工学研究センターまで出来たほどだから、そのコンセプト波及力と後進の先生たちの努力には敬意するばかり・・・

その吉川先生の『人工物工学』の思想は、九州大学伊都の山田淳教授が「読んでご覧」とPDFを送ってくれたことで知った次第。いやはや、この論の大きさには驚かされた。論考の動機づけは科学技術(特に無数の独立領域から成る「工学」)の役割の考察からだった。曰く:

「・・・・『現代の邪悪なるもの』が生起してくること、およびそれに対抗する有力な方法を生み出すことに困難があることの重要な原因の一つとして、『視点の限定を契機とする独立領域の成立』があるとすれば、その困難を解決するためには、“視点の限定のない「領域」を作り出す”ことが必要だ、というのが直観的帰結である・・・
・・・我々の課題は、“領域の存在を否定した工学”を樹立することである。機械・電気・材料などと言った領域を認めない、あるいは、“どの視点も取り入れることの可能な工学”である。従ってそれは、工学において各領域が対象とするものすべてを対象とする。すべての対象とは人工物である。そこで、この領域の存在を否定した工学を“人工物工学”と呼ぶ。
ここで指摘しておくべきことは、人工物工学は既存の領域工学の単なる総和ではないという点である・・・・・・領域化した工学が本質的に持ち且つ従来の領域化の原則に依拠する限り決して見ることのできない面を見せてくれるようなものでなければならない、というのが人工物工学の目標である・・・もちろんこれを一つの領域と呼んでもよいが、そのとき領域という言葉の意味は拡大する・・・」

ここで、『 』付きで強調したキーワードを補足しておこう。

『視点の限定を契機とする独立領域の成立』とは:
「・・・これらの科学においては・・・選択された視点に立って、対象世界を整合的に理解することが主な目的とされる。そして、この理解という目的のもとでは、領域分割が極めて有効に作用した。まず理論体系を整合的に、しかも簡潔に立てることを可能にし、結果的にディシプリンを成立させ教育あるいは知識の拡散を効率化させるとともに、領域内での研究の型を定式化して、その学問分野の発展を高速化する。例えば自然科学では物質の構造と挙動という視点のもとで、物質世界の理解を深めるための数々の理論が生み出された。経済学では経済現象を対象として,特定の型の理論が次々と生み出されている。(人間にとっての機能的意味で対象を切り出すと、その部分が整合的に理解しやすくなるのは何故か。これは不思議な問題であるが)・・・・云々」

一方、『現代の邪悪なるもの』とは:
「・・過去において“時代の邪悪なるもの”とは、外部から人間に攻撃をかけて来る可視的な敵であった。自然科学は個々の学問領域において・・・・・・人々を他の獣や病原菌から守り、自然の災害を軽減し、人命を保護し、安全な行動を可能にした。そして何よりも快適な生活環境を作り出したのである・・・しかし現在は、外部に敵は不在のまま多くの困難な問題が地球上には存在している。それらを『現代の邪悪なるもの』と呼ぶことができる。例示するならば:
・人口爆発と食料不足
・過剰生産地域と飢餓地域の並存
・地球環境破壊事故の大型化
・民族間の紛争、貿易摩擦や過当競争
・都市生活における孤独と冷淡と犯罪
などがある。これらは様々な異なる要因によって生起させられたものであるが、共通している点がある。それは、いずれも“人類が安全と豊かさを求めてきた行為の結果として全く予期していないままに生じて来たもの”という点である。そこには可視的な外部から攻撃をかける敵は存在せず、原因を求めるとすれば、“安全と豊かさを求める行為を生み出した人間の意図そのものの中に見出だすしかないのではないか”という不安を抱かせる状況がある・・・云々」

これらの問題意識に立って、細分化された学問領域ごとの「局所最適化」が、人類社会全体なり地球環境なりの大局において、不可避的に矛盾し相反する結果を招いたことが否めないとの認識を語り、であれば、最初の引用の中にあった「領域の存在を否定した工学の樹立」こそ、ただ一つの解決の道を拓くのではないか、と主張されていたのだった・・・

ここに至って、学問領域を成り立たせている人間の思考形式をもう一度吟味することになるのである。そこで浮き彫りにされるのが、“学問活動と実践行動の様式”に関する一つの気付きだった。結論から言うと、科学の手法としての「演繹」と「帰納」の影に隠れている「仮説形成」機能としてのアブダクション(ABDUCTION)が鍵を握っているという仮説(!)に行き当たるのだった。発想法を勉強された方には馴染み深い、あの“アブダクション”が出てきましたな ^_^)

・DEDUCTION(演繹)
・INDUCTION(帰納)
・ABDUCTION(仮説形成)

もう少し、吉川先生の引用を続けてみよう。ニュートン力学が事例に引かれていてとても興味深いので。曰く:

「・・・領域の独立性は、その領域に必要ないくつかの法則が他のどの領域にも含まれないときに完全である。・・・・一つの典型として、ニュートンの『プリンキピア』を考えよう。ここでは物体の力による運動という視点を定め、目前のりんごの実の落下も、遠い天体の運動も、3つの法則(等速運動,加速度,作用-反作用)によって説明可能であることを示したのである。
と言うよりも、むしろ、我々が観察することのできるすべての運動についての記述は、それらが真であることを、3つの法則を使って証明できることを次々に示したのであった。
ここで問題にするのは『プリンキピア』における記述の形式である。同書では、用語についての若干の定義の後に、「3法則」が“突然”述べられる。その記述はわずか1頁である。ところが、それ以後の数百頁には、その法則によって証明される命題が書かれているのであって、その記述は「演繹」の形式である。3法則とは独立の知見や例外的観察事実などは一切登場しない。即ち、そこでは“無前提に法則が与えられ”、後は“演繹的論理によって無誤謬の記述が続けられて”、それらが物体の運動を理解することのすべてなのである。もちろんこの形式は『プリンピキア』が最初ではなく、ユークリッド幾何学に遡るものである。そして数学の世界では、公理が与えられ多くの定理が公理によって証明される形で記述されるのが一般である・・・・」

では、プリンキピアの大元となる「3つの基本法則」や、数学における「公理」はどこから降って湧いてきたのだろうか? それこそが、アブダクション(仮説形成)という特異な推論によって行われたのだ。引用を続けよう:

「ある観察事実があるとする。その事実は、ある法則が存在しているならば、よく説明できるとする。このとき、観察事実から法則を推論するのがアブダクションである。先のニュートン力学で言えば,物体の落下・天体運動・釣合いなど多くの観察事実を統一的に説明するための3つの法則がアブダクションによって導出されたのである。パースは学問の進歩にとってアブダクションは中心的存在だとしたのであった。この法則の導出は、“観察を多くすればするほど量的な確信度の上がる『帰納』とは別物”である・・・」

「・・・ニュートンが3法則をアブダクションによって推論し、それが大成功だったとしても、それをもってアブダクションがいつも成功することを保証していると言えるわけではない・・・・しかし一方、試みを確率的に行って(いわば「帰納」的に)正しい法則に辿り着けるものではないという事実もまた自明なのであり、ここにアブダクションが固有の推論機構として重視されなければならない理由がある・・・・」

「演繹」や「帰納」なら、その思考の筋道を繰り返し辿ることができる。しかも誰がやっても同じ結論に帰着する。主観性を極力排除して客観に徹することができる。だからこそ、学問は公平であり、公共的に開かれた営みなのだ・・・
一方、「アブダクション」には“飛躍”がある。吉川先生がニュートン3原則の導出にあたって語ったように、それは「“突然”述べられ、記述はわずか1頁」なのだ。

アブダクションの概念を提唱したプラグマティズムの哲学者チャールズ・S・パースを紹介した『シャーロック・ホームズの記号論』には、アブダクションを「鳥の力」に例えたパースの言葉が引用されている:

「・・・・仮説にはそれを肯定する傾向がはっきりついてまわるのであり、その仮説が実際の事実と一致する頻度の高さは、宇宙の不思議の中でも最も驚くべきものである・・・鳥の飛ぶ力や啄む力と、人間のもつ推測能力とは本能的な力のうちでは最高のものである・・・」

(確かに最新の知覚心理学の分野では、人間の“論理的”思考さえ鳥の直観に及ばない・・・ことが明らかにされてしまったそうだ(モンティホールジレンマ(2010)/妹尾武治『脳はなぜあなたをだますのか』pp.127-136, 2016)

話は更に飛躍する。「アフォーダンス(現前)」の勉強をしていたときのことだ。空を飛んでいた鳥が木の一枝にとまるプロセスのうちに少しの《ぎこちなさ》もないのは、“枝が自身の存在を鳥に対してアフォードするからだ”、という説明があった。だとすれば、「アフォーダンス」を主体側の行動からみれば、そこには「アブダクション」が効いているのではないか。このこと(行動とアブダクションの関係)は、後で(勝手に)図式化して示すことになる“吉川先生の『人工物工学』の着想”の根幹に関わってくる。

それにしても、アブダクションとは誠に不思議な力である。その力は、誰の頭の中でも、また社会の様々な活動の局面でも、まざまざと発揮されているのに、その仕組み(人の脳の中で如何なるプロセスで発現されるのか)は、パース自身でさえ明快な説明ができず、以下のように推測するだけなのだから(吉川先生による引用から転載)・・・

———————————————
「アブダクションは人間の基本能力であると考えられるにも拘らず、
何故、それが人間にとって可能なのかは、必ずしも明かでない」

「人間が自然の一部であり、自然と本質的に調和している存在
であることが、その根拠である」

「アブダクションは人間存在そのものを根拠として、いわば、
本能に依拠しつつ、自らの過程についての明示的意識なしに
行われるのが、その本質である」
———————————————

吉川先生の慧眼は、アブダクションの機能を「思考」ばかりでなく「行動のトリガー(判断力の源)」としても明確にとらえている点である。筆者は先に鳥の着枝を例にしてアフォーダンスとアブダクションの裏表の関係に触れたけれども、結局それも根は同じかもしれない。

——《アブダクション》——
・基本法則を(仮説的に)形成
・行動を(仮説形成的に)決定
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このように得体の知れない力であるにも関わらず、人間において、思考と行動の両方で脈々と機能するアブダクションを、“もっともっと意図的に活用すれば、我々は『現代の邪悪なるもの』に打ち克つ可能性があるに違いない”と、吉川先生は宣うのであった。ここは震える。一括して図解してみよう(但し、作図の責の一切は筆者が持たねばなるまい、誤読のあろうこと故)。

abduction

吉川先生が後に喝破するように「アブダクションを導くものは、いわば、美的感覚」であるのなら・・・・もしかしたら、パースの「アブダクション」も、ベルクソンの「直観」も、ハルナッドの「記号接地」も、カントの「判断力」も、アダム・スミスの「共感力」も、アーレントの「拡大された心性」も、岡潔の「情緒」も、どれも根ざしている人の力の源は同じではなかろうか?

すなわち、「行動」は本来分岐点上から出発するものだから、正しく判断したければ(すなわち、的中率高く選択・淘汰をかけたければ)、係り得る全ての領域を対象に最初からアブダクションすべきであるし、そうすることで、(個々の領域毎に付き纏う)無用の自由度を予め減らすことで仮説の絞り込みが行われ、行動の結果がもたらす複雑な相互作用をコントロール(交絡対策)することが容易となって、矛盾を回避した平衡化に短期間で到達することがきできる。それがうまくいったとき、ひとは、「美しい」と感じるだろう。

このあたりに関して、未だ誰も見たことのない「人工物工学」の展開において、アブダクションが意識的に用いられて行く土台として必要なことは何だろうか。吉川先生の意識の流れを追ってみよう・・・

「恐らく、そのためにはアブダクションそのものが、目標としての平衡と相互作用を持ちつつ行われることが必要条件となる。パースが考えたように、アブダクションは人間存在そのものを根拠としていわば本能に依拠しつつ、自らの過程についての明示的意識なしに行われるのがその本質であるとしても、“今後はできるだけそのプロセスを明示的に示し、全体的平衡への道の設定を行うことが必要”となる・・・」
↓↓↓
「この条件を考えると、人工物工学には“知識の利用に関する体系”という面がなければならないことが理解される。領域工学は、限定された視点のもとでの豊富な知識を、演繹体系として提供してくれる。しかしその体系内で表現された知識は、そのままで行動に適用出来るとは限らない・・・・」
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「アブダクションに必要な知識の表現と、領域工学での知識表現との間には、内容が同じなのに表現形式の大幅な差異が存在している。しかもアブダクションでは、固有に表現された知識の利用手順という、領域工学では扱わない問題も存在する・・・」
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「このように考えると、人工物工学における理論とは,“知識適用プロセスについての理論”と言うこともできる。領域工学が対象の性質についての知識を体系的に生む、いわば事実理論であるのに対し、人工物工学理論は、それを適用することにかかわるプロセス理論である、と言ってもよい・・・・」
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「ここで重要な点を指摘しておかなければならない。・・・個人の行動において、また集団の行動において、知識のマネジメントは日常的に行われている。工学領域で考えれば、膨大な製造を行う産業において、おそらく生産という観点で効率的な知識のマネジメントが行われているはずである。特に重要なことは、学問として扱われていない知識が行動を通じて生み出されているという事実である・・・」
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「このように行動を通して生み出される知識を、マネジメントによって有効に利用する行動もまた、実は未だ成立していないプロセス理論の素材としての知識を生み出している」

吉川先生の頭の中にある「プロセス理論」とは、アブダクションを明々と働かせる土台として暗黙知を常時刻々と再編集するための新たな方法論のようなものかもしれない。もしかしたら、それは、松岡正剛の「編集工学」の発想と少なからぬ共通点があるのやもしれぬ・・・

先述した『シャーロック・ホームズの記号論』の作者は、その巻頭のエピグラフ(題辞)において、ドイルとパースの言葉を洒落た会話に仕立てて、アブダクションへの読者の注目をかきたてている。曰く:
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「僕は当て推量なんかしない」
(シャーロック・ホームズ『四つの署名』)

「しかし、我々は、当て推量によって真理に達するか、
まったく諦めるか、どちらかしかない」
(チャールズ・S・パース『草稿692』)
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そして、もし、この二人の架空の対話を吉川先生が受け継いだとすると、以下のように言いたかったのではなかろうか。いかにも工学者らしく:

「膨大な量の知識を生み出している産業を重要な知識源と考え・・・これらを素材として体系化することで・・・アブダクションを有効に働かせるための知識表現へと再編するプロセス理論の確立を目指すという研究もあり得るであろう」と。