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スタッフブログ

量子化せよ、そして加速せよ。

転載した手描き絵は、哲学者ドゥルーズと心理学者ガタリの共著『千のプラトー』から。この本、めいっぱい脱慣習化された言葉遣いと、それらの異次元の組み合わせで、何が何やらwww
 それでも、この図の前後(断章「ガブリエル・タルドへのオマージュ」)を何度か読み返しているうち、とつぜん、柿本人麻呂の歌が脳裏に浮かんだのです。それをタルドが透視した「意図の模倣」と呼んでいいのかさえ分からぬまま・・・
「そうか!<切片>とは<網代木>のことだったのか」と、その時は分かった気になったのでした:

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もののふの
八十(やそ)宇治川の
網代木(あじろぎ)に
いさよふ波の
行方知らずも
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柿本人麻呂のこの歌については、数学者・岡潔の解釈が群を抜いて、曰く:

「冬、宇治川の氷魚を捕るために水中に棒杭を打つ。すると、杭の周囲の水流が緩んで、そこに魚が集まってくる。歌は、<その棒杭(網代木)に水が停滞して、白い波を立てている>という情景を詠んでいる。・・・八十氏の氏(u-ji)を宇治(u-ji)にかけたのであるが、物部氏には八十の氏があったと言われていた・・・」

当時は既に物部氏も蘇我氏も滅んでいて人麻呂の時代は仏教に人々の関心が集まってきていた。「氏の名にすがりたい、仏教を頼りたい、というのは人の心の弱さ故だとしても、そうそう、いつもいつも、よろめいてばかりで、どうするのだ!」というのが、岡潔の読解です。続き:

「・・・どうして、そう断定できるかというと、この歌の調子が<命そのものの流れ>を思わせ、人麻呂の心に一点の曇りも感じられないからである・・・・だから、人麻呂はこう言っているのである――氏(うじ)の名を顕したいなどという意味のないことにこだわり続けるような人々の生き方の<行方(ゆくえ)>など、自分には全くわからない、と。」

話を戻すと、ここで岡潔先生が人麻呂の歌心の直なることを言い表した<命そのものの流れ>が図の<a’⇒a’’⇒a’’’⇒・・>、氏(うじ)や仏教などの表象としての「網代木」が切片<b1/b2/b3/・・>、その両端を抑えている二つの<Bb>が当時の古代国家権力の中枢、そして弾けるように迸る人々の心の流動(<a’⇒a’’⇒a’’’⇒>)が極まったところ(<A>)で不意に「Bb-/bn/-Bbの領域」(次々に姿を変えては現れる古代社会の無常の枠組み)に回収されてしまい拘束と閉鎖性の苦しみに本来の流動性が分断されてしまうが、それでも幾許かの分子(例えば人麻呂、少なくとも彼の心意気の”一部”)は、傷つきながらも反対側の極<A+>の間隙を突いて山の彼方に離脱していく・・・

ドゥルーズ=ガタリのもともとの思想は、ポスト構造主義として十分センセーショナルで、80年代の日本ではニューアカデミズムとして一世風靡しました。先の図の下半分に当たる「Bb-/bn/-Bbの領域」が、原始社会⇒古代国家社会⇒資本主義国家と変遷し、この先、資本主義国家体制をさえ乗り越えていくだろうという洞察(コード化/超コード化/脱コード化,領土化/脱領土化/再領土化などの新概念が絢爛)、そして、そのダイナミズムは、上半分の<a’⇒a’’⇒a’’’⇒・・>の流れによって駆動され、しかも、それら「a’/a’’/a’’’」の単位は、個人とか共同体の括りではなく、信念や欲望の「微小な粒子」(図では「量子」と表記されていますね。モナド?)であって、それらが離合/集散しつつ流れ、流れは収束/拡散、停滞/決壊を繰り返して(上半分のこちら側では「器官なき身体」や「戦争機械」などの概念が衝撃的)、下半分の国家/社会の様態を常に揺り動かす・・・というパノラマ。

※この「欲望や信念の量子の流れ」に関して、ドゥルーズらがガブリエル・タルドから触発を受けた返礼として、彼へのオマージュを冠した断章に添えて冒頭の図が描かれたのでした。そのさわりを↓:

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・・・それと同時に物事の根本を見るなら、「ミクロの模倣」は流れや波動に関係しているのであって、個人に関係するのではない。「模倣とは流れの波及」である。「対立とは流れの二項化」である。「創意は様々な流れの連結」である。

ではタルドにとって「流れ」とは何か?

あらゆるアレンジメントの二局面に相当する「信念あるいは欲望」のことである。

信念と欲望は「あらゆる社会の基盤」である。信念も欲望も流れであり、真の社会的量になっており・・・「無限小の模倣と対立と創意」は、いわば流れの量子であり、「信念と模倣の波及と二項化と連結の指標」である。・・・

量子化した信念と欲望は流れとして、創造・枯渇・脱皮を繰り返し、付け加えられたり、削り取られたり、組み合わされたりする。タルドはミクロ社会学の創始者であり、この社会学にその広がりと射程を与え、来るべき誤解をも予め告発したのだった。・・・

「ガブリエル・タルドへのオマージュ」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)
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この文章、ドゥルーズたちの考えをいろいろ勉強してみるまでは、本当に「何が何やら」の感でした。しかし一通り理解を進めて思ったのは:

ドゥルーズたちの哲学的発想をシステム論的に捉えて「欲望の微粒子」を擬人化すること(それは、まあ、ドゥルーズ=ガタリ自体がA/A+をパラノイアック/スキゾフレニックな極として精神分析的に定義してしまったことにも依るのですが)に引きずられるままにマクロな社会学的理解に走ったり、(僕が柿本人麻呂をダシにしてイメージした如く)システムに巻き取られない個人の才覚にのみ着目する見方に偏らせてしまっては、なにか大事なものがするりと抜け落ちてしまうのではないか、と。

それゆえ、いいのかわるいのか悩みつつ、こんな絵(↓)を:

 (いやはや、どうしても最小単位=個体の慣習から抜け出せず、お恥ずかし。
この世界が流れであるフィーリングだけは失わないようにしつつ・・・)

図右上の「単独者(このもの)」は賢人/貴人等である必然はなく全くもって”しがない”存在であって構わない。ただ「類」(左下)の中の「個」(右下)としてではなく、「無限の世界」(左上)の只中において、改めて自分が「流れつつある世界」の流れの一粒であるが故に「この世界そのもの」へ媒介なしに到達可能だと肌で了解している。だから、そこに何度でも世界へ乗り入れようと心身が動き出すのだ。この者は、いま、ここ(「★+」)にいる。

この世(世界)の仕組みである限り下半分の「類-個」が複雑に入り組んだ共同体の集合が無ければ誰も長く生きてはいけませんが、それでも上半分の流れこそが「動きつつ在る」(個々に差異があって触発し合うからこそ何かが生まれる)という生成の仕組みによって成り立っている「この世」を(実に驚くべきことに本当に)支えているのだと感じられます。

そこで、ドゥルーズ解説者の檜垣立哉さんが「常に無限の流れに潜在的に晒され、無限の流れに俯瞰して入り込むこと」の例として鳥・昆虫・遺伝子を挙げている「意図を模倣」して、前図の単独者を鳥に見立てて、僕なりの「ガブリエル・タルドへのオマージュ」を描いてみることにしましょう。「量子化した創意の群流をアンサンブルせよ」と。

(下半分を見れば見るほど共同体空間の活動の健気さは時に涙が出るほどの忙しさですね)

昆虫好きの、とくに硬い外骨格の鎧を纏った甲虫好きの僕にしてみれば、テントウムシやカミキリムシが葉先/枝先/僕の指先から、まさに飛び立とうとするときの方が、「★+」にはふさわしく思えます。ランボルギーニ・カウンタックのドアを天蓋ととも全開にする如く(←比喩の順が逆か!)外羽根を開き、内に折りたたんでいた褐色透明な薄羽に血流を巡らせ風を呼び込み、触覚を忙しく上下させる。

その姿は、きりきり緊張して見えて「意を決しているのか」「考えを集中しているのか」と見紛います。ナウシカや「風立ちぬ」の堀越青年が世界の風を決然と捉えるような感じです。檜垣さんが言う「無限の流れに俯瞰して入り込む」という状態だろうと思います。「俯瞰して入り込む」とは人が直観的に一息で「観念(かんねん)」(<広がりの無い点>とか)を掴むのに似ています。また、「無限の流れ」とは単独者に対する「普遍」に相当していて、ここにおいて「単独性と普遍性」が(例えばエネルギーの流れにおける)直接遷移に似た関係にあることが知れます。これまで掲載した三つの図の上半分は、全てこの状態。これと対照的に「個から類へ」と段階的に「概念(がいねん)」を形成していく共同体的営みは図の下半分においてのことかなと思います。

今まさに飛び立とうとするテントウムシやカミキリムシの姿に眼を戻します。彼らの本能(直観力)は常に行動に先行して上空を流れる量子の群れとともに在る。それがヒシヒシと伝わってくる瞬間。この瞬間もロッキングなく流れの中にある緊張がたまりませぬw

さて、ようやくドゥルーズらがオマージュしたガブリエル・タルドです。彼の『模倣の法則』から。

もともと、この文章を書く羽目になったのは、編集工学の道をひた走る松岡正剛の千夜千冊で「オートポイエーシス」を調べる過程でドゥルーズやタルドに行き当たり、下記1)ガブリエル・タルド『模倣の法則』に度肝を抜かれ(すぐ後にセイゴウ氏翻案の一文を掲載しますね)、ドゥルーズについては、下記2)の表題の著作とセットの『千のプラトー』に「ガブリエル・タルドへのオマージュ」という断章があるとのことで、表題作ではなくこっちを買って、恐る恐る目的のページにたどり着けば、冒頭の図が掲載されていて・・・という次第。

1)1318夜 ガブリエル・タルド『模倣の法則』
http://1000ya.isis.ne.jp/1318.html
2)1382夜 ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』
http://1000ya.isis.ne.jp/1082.html

1)の中で、セイゴウ氏は、19世紀後半を生きたタルドの古く断片的な口調を補足して、再文章化しています。文字量で言えば30%くらい増えているのでは。再生されたコンテキストの鮮明さは流石です。とても説得的で迫力のあるメッセージになっています。せっかくなので、その最初の方を以下に引用:

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「社会においては、すべてのものは、発明か、模倣か、に他ならない。

模倣は、社会活動の基礎であり、本質的に社会学的な力なのである。いいかえれば、社会とは、「模倣によって、あるいは、反対模倣によって生み出されたさまざまな類似点を、互いに提示しあってる人々の集合」なのである。では、社会のなかで何が模倣されているのだろうか。実は、常にひとつの観念や意志、判断や企図が模倣されるのだ。

世間では、しばしば模倣の意図を問題にする。そしてオリジナリティや知的所有権を擁護する。しかし、模倣が意識的であるのか、無意識的であるのか、あるいは意図的だったのかそうではなかったのか、ということを区別するのは意味がない。なぜなら、オリジナリティを議論する以前に、社会そのものが模倣から生じてきたものであったからである。

模倣の意図ではなく、意図の模倣こそが、社会にとって本質的であるからだ。

模倣の正体はなかなか見えにくい。しかし、おそらく、模倣は、人間の内部から外部へ、社会の内なる部分から社会の外なるものへと進行する。そうであるのなら、思想の模倣は、表現の模倣に先行し、目的の模倣が手段の模倣に先行すると見たほうがいい・・・云々」
——

冒頭の一文でまずびっくりさせられ、「世間は<模倣の意図>を問題にする」のところで小保方さんを思い出し、逆に「意図の模倣」は模倣であっても連想の飛躍の幅が大きければ時に創造的行為に繋がるかもと視点替えの味を噛み締め、一方「手段の模倣」と言われそうな凡百の(かつての自分も量産したところの)義務的な特許出願のことを思い出し、そんな中でも「意図の模倣」によって領域を越えた「新しい目的」(~新規性)を設定して更に「新しい手段」(~進歩性)を加えて出願したことのある特許が一つ二つはあったなあと少しホッとしたり、そうか「内から外へ」(逆ならただのリソース使い回し)でなければ世界を新しくできないものなあと妙に納得したり・・・・

そして、「模倣とは流れの波及」とドゥルーズがオマージュ文の中で解釈するからには「波及」の言葉に「触発」のインパクトを込めているんだなと思い当たり、「何が何を」触発するかと言えば、流れの中の欲望の量子同士の創発のことなのでした。どれとも異なっている一粒一粒の量子同士が触発し合い、時に二項分裂し、あるいは接合し連結して、世界を日々あらたに生成し続ける。それが「差異と、そして差異による反復」の意味なのだろうな。

単独な量子は個々にしがなくとも、相互に触発し、二項分立し、あるいは接合・連結することで、創意と言われ、発明とも言われる日が来るかもしれないのだ、きっと。

そうか、「単独-普遍」軸は、「天上大風」みたいな、量子の「加速器」だったのか。混濁した塊を徹底的に量子化せよ、量子化したら極限の流れに加速せよ。

実は、この先が、僕の本来の業務的ミッションとしての「知財創成の新たな仕組み」に関わることなのだけれど、それは、もう、実働しながら確認していくことになるのでしょう。

※ なお、タルドには良い入門書がなく残念なのですが、ドゥルーズについては松岡さんの推奨でもある宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』に大いに助けられました。ドゥルーズ哲学の土台の紹介部分では、スピノザやベルクソンはもとより、ヒュームの読み改めが、圧巻でした。

※ ひとつだけ、スッキリしないのは、量子の正体を欲望や信念と言っていること。スピノザなら、さらに深い層にある「衝動(コナトゥス)」(「欲望とは意識を伴った”衝動”である」の文脈にある”衝動”)と云うはず。アレンジメントを誘発してもらわないといけないので、一つ上の層の欲望と信念を量子に割り当てたのかな。でも欲望の層だと本当に資本主義の次に行けるのかな。「目的なき肯定の努力(コナトゥス)」こそが最終的には(スピノザの定義する通り)「現実的本質」だと思うのだが。
あっ、欲望量子の衝突でコナトゥス量子をはじき出すのか《コナトゥスこそ、ヒッグスだったか!》

※「加速器」といえば、(まだ潜在的には誘致の夢が絶えてはいない)「ILC:国際リニアコーライダー」については、こちら(↓)を。
http://www3.isit.or.jp/staff-blog/archives/3380