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スタッフブログ

西行


春は駆け足だ、特に今年は。梅、桃、桜。あっという間に咲いて気が付くと散っていた。それでも運を得て花の盛りの一期一会に立ち会うと、まあ、それはもう、なんとも華やかというか豊かというか清々しいというか。

その時まさに眼前で新しい世界が開かれたばかりのような。春浅い今年の福岡城で見た白梅かそうだった。大枝を悠々と横に伸ばし周囲を薫らせる。

西行にこんな歌がある。

とめ来かし
梅盛りなる
わが宿を
うときも人は
折りにこそよれ
(新古今和歌集)

アメリカ大使館がCaroline Kennedyの親日ぶりを少々過剰に演出しているTwitterの”Today’s poem (Japanese only): 今日の詩歌”というシリーズの投稿で知った。帰宅が遅くなった夜、電車の中で。。。シビレた。どうしてだかわからないけれど。「折りにこそよれ」に目が止まった?

その夜、ベットの中から、こんなふうな感想をfacebookに上げた。

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何故、シビレたのだろうと、可能な限り仮名を漢字に打ち直して、眺めてた。そして、今も、ぼやっ~と見ている。。。

尋め来かし
梅盛りなる
わが宿を
疎きも人は
折りにこそ寄れ

その梅を「あいだ」に置くこと、ある繋がりの媒介者として。

だが、それがすぐには(おそらくはずっと)叶なわぬだろう西行は、まずは自分一人で、それを眺めることから始める。

ああ、、、ある時は月だった。何時かは桜だった。

いつも「疎き吾れ」の現前にあるのは、自然の中の何者かだった。けれど、それはあくまで、「あいだ」、仲介者なのだ。

「折りにこそ」、、、奇跡の時は、またも指の間からこぼれ落ちる砂のように過ぎ去って行った。。。

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数日を経た昨日、今度は全部仮名書きに戻して、また、眺めて見ていた。。。
東京出張のあちこちへの移動の合間にw

とめこかし
うめさかりなる
わがやどを
うときもひとは
おりにこそよれ

表意文字の漢字がないと、衣裳(意匠)か剥ぎ取られたかのように、丸裸の一人の男のつぶやきに変わる。

先の僕の読みは分析的に過ぎたのかもしれない。頭は疲れていても、仕事以外のことにさえ、そういうふうに知らず知らず賢しらに脳を働かせてしまうのだろう。

けれど、浅知恵で分析することなど深い情緒が語ることに及ばないとかそうじゃないかも、とかの話はあまり意味がない気がする。迫り方が違うなら見える世界も変わるわけで。

ただ昔の日本人は、知性で見るより情緒で見る道を選んだ。知性は自分を自分の中心にギュッと固めてグイグイ追い込んで行く。

一方の情緒は差別化ということにあまり関心がなく、感性を自分の外に染み出させて行くように世界理解の網を張る。時に的外れな理解もあるが、変な思い込みで袋小路に嵌る危険を自然にすいっと避けてしまうような有り難みがある。

歌を歌うことで、いつの間にか自分自身を救ってしまっている。。。
そう読むことにしよう。