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スタッフブログ

トリプルアクセル 〜 ゲシュタルトクライスのイリュージョン

ラフマニノフのピアノコンチェルトは、あのときから奇跡のように美しかったトリプルアクセルのイメージと一体化してしまった。それはあの浅田真央の演技があまりにも素晴らしかったということに加えて、あの演技とあの曲の間に何かとても決定的な相互作用があったのではないかという感じがどうしても拭えなかったのです。

そんなとき、松岡正剛の最新の千夜千冊(1536夜-20140228)「あいだ」を読んだ。 https://1000ya.isis.ne.jp/

そこには浅田真央のショートでの失敗が引例されていた。けれど彼女はショートでの失敗をフリーで挽回したではないか。だとすると、この論考のテーマである「 あいだ ≒ ゲシュタルトクライス ≒ ユーザーイリュージョン 」によって、その成功がどうしてあれほどの完璧な芸術性を発露したのかということをも考えてみることができるのではないか。

(まず学習したこと)
意識は(行為も)作用そのものがノエシスで、対象的側面がノエマだ(※)。そして、音楽の演奏は(フィギュアスケートの演技も)ノエシスがノエマに投影しながら進んでいる。だったら、“音楽はどこで鳴っているか”(“スケーターはどこで舞っているか”)といえば、ノエシスとノエマの「あいだ」で“鳴っている“(“舞っている”)とみなすしかない。
(※ノエシス、ノエマはともに精神・理性を表す「ヌース」が語源。意識の方向性を考究していたフッサールによる意識の両極の機能)

(そして考えたこと)
だから、ソチのフリーでの浅田真央が、どこにいたのかといえば:
ノエシスとノエマの「あいだ」、ゲシュタルトクライスのまん真ん中にいて、そこでラフマニノフの音楽が創り出す「間」と同期することで、ベンジャミン・リベットが測定した意識投影(ノエシス⇒ノエマ)の遅れ=0.2秒のズレを補償して見せたのだ、たぶん。
そして、あの完璧なユーザーイリュージョンが生まれたのだ。「意識のズレ」は「曲の持つ間」が補償して、それらの相互作用の結果として見える氷上の浅田真央の姿には、人の意識のなかの時間の奥行を柔らかなクッションにしたような滑らかさ豊かさが与えられて、なんというか異次元の質感を生み出していたのではなかろうか。

それを図にすると、こんな感じ!? ↓

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(のちのつぶやき)
僕は以前から、フィギュアに使われる音楽は、音楽として(演奏を含めて)どうしてあれほど質の高くないものばかりなのだろうと思っていた。今思うと、たぶん、たとえるならオルゴールのような、あるいはメトロノームのようなタイプの音楽であるほど、ベンジャミン・リベットの意識のズレを生じさせないような効果があったのだ。逆に、ラフマニノフのような曲は、曲と演技の二乗でズレが生まれる可能性があって、きわめて不利な楽曲であったのかもしれない。にも拘わらず、ソチの浅田真央のフリーでは、ズレが二乗にならず補完しあうことで、あの精神的高みを現出させてしまった。
閉会式でラフマニノフのピアノが流れたのは、個々の種目のメダルを超える大会全体のMVPがあるとしたならば・・・という意味だったのかと勝手に解釈することにしています。どうも僕につける薬はなさそうです。