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スタッフブログ

ベアトリーチェ、あるいは、恋人も濡れる街角

岩波の雑誌「図書」に連載中のダンテ「神曲」の新訳(河島英昭)が大詰めだ。
いよいよ<煉獄編>のクライマックス。そして、<ベアトリーチェ>登場の予感。

いつのまに嵌(はま)ってしまったのか?・・・すごい物語だというのは、随分昔に粟津則雄の「ダンテ地獄篇精読」を読んで漠然とは悟っていたのだが・・・まさにいったん踏み込んだら最後まで読み(歩み)続けないではいられない・・・・
そして、この悪夢のような物語(道行き)は、実は、まどろみの中からスタートする:

人の世の旅路のなかば、ふと気が付くと、私は真っ直ぐな道を失い、暗い森に迷い
こんでいた・・・・・・どうしてそこに迷い込んだか、はたとわからぬ。ただ眠く
て眠くてどうにもならなかった、真(まこと)の道を踏み外したあの時は。

そんな世界の空気の重さや、満たされぬものを満たそうとするが何を求めていいのかわからない雰囲気が・・・・何故か僕には桑田圭祐のあの歌と重なる。どうしてだか説明はつかないけれど、そう感じてしまったのだからどうにもこうにも仕方のないことだ。

http://www.youtube.com/watch?v=USneNnHoBUs

♪ 今夜あたり訪れる・女の姿をした・不思議な恋 ♪

この歌詞は、思い描いている対象が、「個別の何者か」ではなく、「これから自分が入り込んでいく一種の状況」であることを暗示している。まるで、ダンテが、まどろみから地獄へ導かれていく心の傾き方にも似て・・・・・・そうして、歌詞が流れていくに従って、<おれ>が至高の彼方に求めて止まない対象は、「間柄は遠い<おまえ>」という個別のイメージに凝結されていく・・・

時折雨が降っている。たぶん、雨雲の奥から時折月光が差すこともある。ここはヨコハマの馬車道あたり。<おれ>は何かを待っている。
雨は、地上の他の場所にも降っているだろう。月光は、さらに広く地上のどこそこにも届いているだろう。<おまえ>もまたこの雨に打たれているだろうか? あるいは、どこか遠い国で唯一人、あの月の微かな光を浴びていはしないだろうか?
もしそうならば、この雨粒が/この月光がおれたちの微かな関係性でありえるならば、おれはこいつらを<おまえ>の化身だと感じ取ってみせるから、今、このままでいいから、おまえのその指先で<おれ>をいかせてくれ・・・

桑田は、他人が後付けする解釈など歯牙にもかけず「だだの歌詞じゃねえか、こんなもん」と嘯くだろう・・・一方、ダンテにしたところで、<至高のもの>を想像することすらできない堕落し切った現代人の身勝手な解釈に<ベアトリーチェ>のイメージを重ねるなんて許すわけにはいかないと言うだろう・・・もちろん・・・(われ、J・ダニエルではあらねども)ごめんなさい。

でも、ダンテさん・・・・君も、<天の使いとして新生したベアトリーチェ>との再会では、彼女から<真を求めることへの怠惰>を激しく諌められたんだよね↓:

私が肉から霊へと登り終え、美と徳が私に増すにつれ、この者、日に添えて、
私を疎まし厭わしと思い募り、遂に真(まこと)でない道に踏み入り、
善を装う虚仮(こけ)の象(すがた)を追った、それが全くの空手形とは
愚かにもつゆ疑わず。
私は一再ならず霊感を祈(ね)ぎ求め、夢に、また様々の異象(まぼろし)に
それを示して、この者を喚び返そうと努めたが、験(けん)さらになし。
眼をくれようともしなかった!

周りの天使たちが「淑女よ何故にそこまで叱るのですか」と訝るほど、ベアトリーチェの糾弾は苛烈を極めた。もちろんダンテに反駁の余地はない。(あの古美門さえ弁護を躊躇するほど?)

おお、昨夜届いた11月号の口絵(左)の天使の群れの中央にベアトリーチェが!
(右)は、ダンテの晩年の横顔。親友のジョットの筆。

最後はダンテが若い頃に書き残した詩片を。とても有名だし、やはり、このひとならではの憧れることの深さが魂を包んでいる・・・・

花づなの蔭に見しより
嘆かるれ花見るごとに