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スタッフブログ

幸せのクオリア

ツイッターで良く見るのは科学技術の最新情報と偉人の言葉(いわゆる名言Bot)です。
筆者の個人的な感じでは、数ある名言の中で常に安定して突出した力量を示してくれるのがゲーテと孔子、時々キラリと光るのがアインシュタイン、モンテーニュと今回取り上げる「セネカ」あたりかなあ・・・セネカはローマ時代の哲学者・詩人ですが、カリグラやネロといった暴君の時代を生きた政治家としても有名だそうです。

その「ルキウス・アンナエウス・セネカ」の彫像は、右の二つです。左の画面の後姿の人物は、映画テルマエ・ロマエで阿部寛が演じるルシウス・モデストゥス(彼はハドリアヌス帝の時代ですからセネカよりは一世紀近く後の時代を生きています)。

この二人(ルキウスとルシウス)、それぞれ暴君の時代・五賢帝の時代に活躍しましたが、時代環境だけでどちらが「幸せ」であったかなんて分かるはずもありませんが、その「幸せ」に関する論考が今回のテーマです。

そこで、セネカいわく:

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どんな幸せなことも、

失ったときの心構えが
その人(それをいま手に入れている人)
にできていなければ、

幸せにはしてくれない。

『セネカ哲学全集5 倫理書簡集I』
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経済的(なべて今の世は経済的にできていて・・・)な文脈では、よく「モノではなくコト」とプレゼンさせることが多くなってきたようです。それと、たぶん、関係します。

そこで云う「コト」は、確かに「モノ」そのものではなくて、「売り手の仕掛け」としては「コト」の中の「モノのごとき実在感(≒クオリア)」をアピールしますから、人々はその実在感を縁(よすが)として「コト」というイベント/サービスに吸引されていきます。

「幸せという状態」は、そのような「モノのようなコト」・・・ではなくて、たぶん、「行為(主体的であれ受け身であれ)のようなコト」・・・ではないかな?

今回のセネカの言葉では、冒頭で「幸せなコト」と言い始めることで、モノ的クオリアを離れて真の幸福が語られる予感を期待させるのだけれども、(訳文の)文脈から醸されるイメージは、徐々に「モノ的」になっていく感じ。例えば、「失う」「手に入れる」「幸せにしてくれない」と畳みかけられてくるに従って。

そこで・・・・・

セネカが書き残した最初のラテン語の雰囲気を想像的に再現してみるとするなら:
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
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どんな幸せな状態も、

そこから自分が逸脱してしまう可能性を覚悟していなければ、

今の幸せの状態が、危うい均衡の中で(自分がいくばくかの寄与をしつつ)

奇跡的に保たれている僥倖である有り難さに気付くことはない。
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さて、ルシウス・阿部に訴えかける上戸彩さんの台詞(左画像中に記載)に戻りましょう。このシーン、悲劇に向かおうとするドラマの流れを一気に反転させる名場面でした。

「結果がどうであれ、自身の行為の真摯さ・気高さを空しくすること勿れ」と励ます女性の言葉ほど男を奮い立たせてくれるものはありません(そういえば・・絶体絶命の半沢直樹も上戸さんに鼓舞されてましたね)。この一言によって、ルシウスは幸福の道からの逸脱を免れることができたのでした。めでたし!めでたし!