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スタッフブログ

防災の日に

本日9月1日は、防災の日というらしい。朝からテレビでもラジオでも関東大震災90年と繰り返している。地震といえば、宮崎や震災前の筑波にいたのである程度のものは体験しているが、私自身の体験した最大のものは、1995年1月17日月曜朝の阪神大震災である。実はこの日は私の誕生日であったが、この時以来我が家ではケーキが姿を消し、毎年会社の近くの伊丹昆陽池公園に犠牲者数と同じ6434本の蝋燭が灯るようになった。「その一日」の記憶を「である調」で少し。

<朝> この日の朝5時46分、私の住む盆地三田市もかなり揺れたが、六甲山の海側はもっとすごいことになっていたようだ。この日はある講座の講師を務める予定だったが、三菱電機の上司からの、安否確認と自宅待機の連絡に続き、しばらくして昼近く(当時は状況がわからなかった)被災地、西宮市に住む義母から電話が入った。

<朝> マンションが傾き、玄関のドアが開かず(地震が来たら玄関の扉を即開けろと後で聞いた)、たまたま塗り替え工事をしていた組台を伝ってベランダ側から地上に降りたらしい。何も持ち出せず近くの小学校に来て公衆緊急無料電話に並び、やっと連絡できたと言う義母の声は恐怖と寒さで震えていた。テレビでは神戸市の映像はでるがその他の地域は皆目わからず、私は義弟と2人で、母を車で救出に行くことにした。後で、はたして車でよかったのか反省する事になるが。

<昼> 国道は混むと予想し思い切って渋滞時に時々使っていた山の抜け道を選んだ。案の定途中まで順調に進んだが、頂上付近で道を半分塞いだ大きな岩に1台の車が衝突しているのに遭遇、降りて調べると中も外も既に人の気配はなかった。道幅を確認し恐る恐る抜けて麓の住宅街に降りたつがそこはいつもの景色とは一変していた。戸建ての屋根瓦が道路に落ち、ガスのような鼻をつく臭いも充満している。人通りは少なかったが、道を歩いていた人が煙草を吸っていたのにはその脳天気さに驚いた。

<夕> 義母とは幸運にもすぐに会えた。たまたま寒さで震え着る物をマンションに取りに帰る途中との事だったらしいが、マンションに戻るのは断念させてすぐさま引き返すことにした。国道は既に大渋滞と化しており自由に進路もとれない。途中バッテリーがあがったがむしろガソリンが保つか心配した。消防車と救急車が至る所で立ち往生していた。母を救出し安堵する一方、車で来たことの是非を考えた。いつもの十倍近い時間で深夜、なんとか三田市に着いた。その後想像をこえた神戸市の地獄絵が報道されていく事になる。義母はこの日からマンション建替えまで数年三田市で暮らすことになった。当然ながら私の為には蝋燭もケーキもなく、またなくなった。

前のブログに書いた歌の流れる朝ドラの中では、来週というか明日、東日本大震災の日を迎えるらしい。2011年3月11日金曜午後の出来事、ちゃんと見れるかな。。。。今日はちょっと重いなあ。   そしてこの日が誕生日の人は、私と同じように、毎年、つらい目に遭うことでしょうね。