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スタッフブログ

「レ・ミゼラブル」 ~明日は(必ず)来る。

家族に引っ張られて、映画「レ・ミゼラブル」を見てきました。開始数分で、この映画がミュージカル仕立てであることを始めて知ってビックリしました。けれども、ジャンバルジャンがミリエル司教の教えの中に自分の未来を見つけて、官憲への定期的な出頭を義務付ける「仮釈放の身分証明書」を破り捨てて、囚人24601号ではなくジャンバルジャンとして生きていく決意をする序幕部分の山場まで来ると、このミュージカルならではの表現力の虜になってしまいました。

歌の力のすごさは二つあるな、と思いました。一つは、何人かが同時に歌っても個々の歌声として分解能高く聴き分けられること。二つ目は、実写では表情でしか表現できない「内なる思い」を堂々と歌っても周囲の登場人物には聴こえない設定が少しも不自然でない舞台芸術独特の手法のダイナミックさ。

ただし配役は歌える役者という制約で選ばれた故でしょうか、警官ジベールの切迫感のなさ(ラッセル・クロウ、こんなもんだったかなあ)、ジャンバルジャンの役者さんの若干の線の細さが残念でした。しかし、それらを補って余りあったのがヒロインの母娘の二人。彼女たちはアパランスの上品さの上に演技も歌も抜群でした。

最後は自ら命を絶つことになってしまったジベールと、主人公ジャンバルジャンとの違いは、警官ジベールのように当時の社会のシステムの中でしか人生の価値を判断できないか、たとえその時代が「収容所技術」に長けた「規制システム」on「法システム」(フーコーの知の考古学の第一・第二の層(ブログ「フーコーを超えて」の右下図)で成り立っていたとしても、ジャンバルジャンのように本来の自分の姿を未来に透視することで時代の頚木を遥かに抜いた価値観で行動できたかの差。

 つまり、ジベールは「規制システム」on「法システム」の中の正義に生き、ジャンバルジャンは強制収容所で罪人が製造される「規制システム」の牢獄の中から、当時唯一であった未来への風穴:ミリエル司教に象徴される<宗教の上昇気流>によって「自分の可能性(本来の自分)」を目指すことが出来た。

僕は、当時のキリスト教の牧師たちの平均的な考え方や宗教一般の社会的影響力に過大な評価や期待を抱く者ではないですが、ジャンバルジャンがミリエル司教との出会いによって「今の自分が恥ずかしい。本当の自分はこれからだ」と自分を拘束する時代の枠組みを越えようとする意志を自分の中でグリップした勇気に改めて驚きました。この時代(たぶん今だって)、時代の枠組みの不条理に気付いた人たちは、映画の中で革命に殉じた若者たちのように社会を変えようと奮闘しますが、ジャンバルジャンは、まず自分を変えるために戦ったのでした。

なので、この映画がフランス国旗を美化するラストシーンで締めくくられたのは、実に蛇足でありました。とにもかくにも、再認識したのは、文豪ユーゴ―、畏るべし!